2014年6月8日日曜日

剣道愛好者が剣道家を目指すもの「気品」

剣道と気品 大日本武徳会剣道範士 持田盛二

 剣道修業をする上に、種々の目標を立てることが出来ようと思う。
昔から「大強速軽」と云うことがあるが、之なども誠に良い教えで、大きい、強い、速い、軽妙な剣、それぞれ修業の目標となるものである。
即ちこの意味から『気品』と云うことも剣道修業上の大切な一目標になろうかと思う。
強いということも勿論重要なことであるが、強いだけでは物足らない。『強い剣道』であると共に『気品ある剣道』でありたいものである。
あの人の剣道に『気品』あるとかないとかは誰にも自然に感じられるものであるが、然らばその気品とはどんなものかという段になると、容易に言いあらわし難い。
気を花に譬ふれば、気品はその薫りのようなものであるまいか、或いは、心を光になぞらへれば、気品はその映ひ(うつろい)のようなものではあるまいかと思う。
 花鮮やかならざれば薫りを得がたく、光明らかなざれば、その映ひを望み得ないと同様に、気品は正しい心、澄んだ気から、自然に発する得も言われぬ気高さである。
何事によらず、真剣になっている時ほど気高いものはなく、三昧の境地、無念夢想の境地に入り込んだ時ほど気品あるものはない。
結局、真剣を離れて気品は得られぬものである。一本の稽古もいやしくもせず、ただ真剣、ただ一心、その心掛けがあったら求めずして上達し、求めずして『気品』ある稽古となるは請け合いである。
斎戒沐浴、神の御前に出づるが如き厳粛なる気持を以って、日々の稽古を真剣に励みたいものである。
 『端正』といふことも気品を養う上に大切な要素の一つである。心が端正でなければ、気品は生まれない。形が端正でなければ、気品は生まれない。形が端正でなければ気品は添はない。 
徒に勝敗に拘泥する時、品が悪くなる。私心、邪念にとらわれて、稽古に無理がある中は気品が添はない。
形の方面よりいふならば、稽古着や道具の付け方が正しくなければ、品が添はない。姿勢の悪いのや動作の粗野なのも品を傷つける。
 剣道は『礼に始まって礼に終わる』といはれるが、礼儀を離れて気品はない。
斯く段々に考えて来ると、心も形も共に正しく互いに相助けるのでなければ、真に正しい立派な剣道、気品ある剣道となることは出来ないのである。『心正しければ剣亦正し』といふのも、この意味に他ならないのである。
 気品を養う上に於いて『気位』といふような事も考へられる。即ち戦わずして敵を呑む気位、遂には宇宙を吞吐する底の気位に至って、愈愈気品は高まるのである。
更に申したい事は剣道を単なる竹刀打ちと考えている中は、本当の気品は生まれないということである。
 この道は天地自然の理法に貫通する至高の大道である事を悟って、修業の上に理想を持って進むことが肝要である。
 理想ある剣道と然らざる剣道とでは、気品の上にも天地雲泥の差が生じて来る。
しかし無理に気品をつけようと気取ってみても本当の気品にはならない。気品は朝に求めて夕に得られるものではない。絶えず心を練り気を養ひ、心と業とが進むに従って、自然に備わるべきものである。
 奥床しき気品漂ふところ、人格そのものに高き香薫じ、明るき光映ひ、誰しも自ら湧き起る尊敬を禁じ得ないものがある。
 折れず、曲らず、鉄をも両断する斬れ味と、にえ、にほい、謂ふにいはれぬ気品をもつ名刀の如く、願わくば剣道に於いても『強さ』と『気品』の両者を併せ得たいものである。


※斎戒沐浴・心を清め、身を洗うこと。

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