2014年6月8日日曜日

時代劇映画シノプシス「相良藩の夏」③希守池實


■矢嶽村
・平家の落人村であり、全14戸
村人は武具(相良弓)の生産で生計をたてている。
・相良弓は、相良藩唯一の他藩との交易品であり、藩の保護を受け矢嶽村のみで生産されていた。
・戦国の世には矢嶽村の男子は雇われ兵として出兵し、その弓術をもって勇猛に戦うことでも知られていた。
それ故に矢嶽村では女子供までもが弓を上手に引くのは当たり前の事であった。

・相良藩には丸目蔵人という剣聖、剣術の創始者もいた。
相良藩の武士たちは、剣術にすべからず明るかった。

資料①
【丸目蔵人佐長恵 (まるめくらんどのすけながよし)

タイ捨流創始・相良藩剣術指南役(15401629
 天文9(1540)八代に生まれた。当時八代は相良氏の支配下にあった。若いころ上京して上泉伊勢守信綱に新陰流を学び、四天王の一人となり、足利13代将軍義輝に演武を披露して感状を受けた。その後、戦国の武将筑後山下の城主蒲池鑑廣や勇将柳川城主立花宗茂に新陰流を教え、授けた免状は今も保存されている。やがて新陰流を離れて、より実践的な剣法タイ捨流を創始、西国に広めた。示現流を採用する前の薩摩藩はタイ捨流を相伝した。あるとき徳川幕府の指南役柳生但馬守宗矩に試合を挑み「竜虎相搏つは非、天下を二分せん」と説得された話や巌流島決闘のあとで訪れた宮本武蔵に、タイ捨流二刀の型を伝授したという話など、逸話も多い。
 晩年は一武村(錦町一武)に隠棲して、村人とともに七町歩余の山野を拓き、その田畑や水路や植林地は残って今に活用される。元和4(1618)、京都からローマに送ったイエズス会宣教師の報告書に、高潔で品格ある丸目蔵人佐の風貌が描かれているのは注目に価しよう。
 寛永6(1629)没。89歳。墓は切原野堂山。墓前には追善のために村人で建てた石灯籠がある。

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