2014年10月19日日曜日

日本人の心得、剣道その一”審判の心得”

1、審判の目的と任務
(1)適正な試合運営に努め、試合の活性化を図る。
(2)有効打突を正しく判定する。
(3)諸禁止行為の厳正な判断と処置をする。
(4)試合者に活気を付け、興味を喚起させる。
(5)試合者に技術の得失や行為の正否を自覚させ
   正しい剣道を自得させて剣道を善導する。

映画監督、舞台演出家に似ている。論理的に言葉で理解し、行動する。
稽古・古の教えを学ぶ!

さて、龍馬珈琲で一休み


2014年9月3日水曜日

龍馬年表




年 代
年齢 
       事      績
天保6年(1835
 1
1115日高知城下本町筋(現在の高知市)に誕生。
嘉永6年(1853
19
剣術修行の為、江戸の千葉道場に入門。佐久間象に山砲術入門。
5年(1858
24
千葉道場より「北辰一刀流長刀兵法」を伝授され帰国。
文久元年(1861
27
武市半平太が主する「土佐勤王党」に血判加盟。
文久2年(1862
 28
沢村惣之丞(20歳)と共に土佐を脱藩。勝海舟(40歳)に入門。
文久3年(1863
29
神戸海軍塾の塾頭となる。

元治元年(1864
30
勝海舟幕府の命により長崎へ出張・龍馬随行。42日間福済寺

2014年8月27日水曜日

龍馬~勝海舟に出会うまで~



龍馬は、生まれた日と亡くなった日が同じ1115日です。数えの33歳、今で言うと32歳の誕生日に京都の近江屋で暗殺されます。
郷士・坂本家の5人兄弟の次男の末っ子で、龍馬が生まれた時、父八平・母幸は38歳、兄権平は21歳、長姉千鶴は19歳、次姉栄は不詳、末姉乙女は4歳、豪商才谷屋で裕福な家柄でした。
龍馬12歳の時にお母様が亡くなります。龍馬の幼少時代は、成績も良くなく、泣き虫だったようです。乙女(おとめ)姉さんが母親代わりで、剣術や学問を手厳しく教えます。身長58寸(約174cm)体重が30貫(約112kg)大柄な女性です。龍馬も同じくらいの身長で、体重はわかっていません。当時男性の平均身長が150cm位ですから大男に間違いありません。
黒船の来航により土佐藩品川下屋敷へ臨時御用につきます。この時19歳、龍馬はペリーの黒船を実際に見る事になります。この頃から自分の船を所有したいと思っていたのかも知れません。これから龍馬は江戸で剣術の修業をし、高知に戻り、いろんな事を勉強していきます。
龍馬は、28歳で沢村惣之丞(長崎の本蓮寺に墓)と共に土佐を脱藩します。その年、勝海舟と面会しますが、世界的な視野の広さに、師と仰ぎ、その場で門下生になます。この時の事を乙女姉さんに手紙を書いています。
2年後の元治元年(1864)亀山社中設立13ヶ月前、幕府の軍艦奉行・勝海舟は、外国艦船の下関攻撃回避するための対策を講じるため、目付・能勢金之助、坂本龍馬、近藤長次郎等、総勢42名を伴い来崎。

勝海舟のお供として、初めて長崎にやって来ます(龍馬は脱藩罪を赦免されていました)龍馬30歳。長崎での滞在は、福済寺(JR長崎駅前にある)です。長崎には江戸時代宿屋が一軒もありませんでした。42日間も滞在しています。見るもの見るものすべてが新鮮だったと思います。 
<NPO法人長崎風 増田泰之>

2014年8月22日金曜日

龍馬が28歳の時、土佐を脱藩した道を10日間で300キロ歩きました。


龍馬が28歳の時、土佐を脱藩した道を10日間で300キロ歩きました。

「かつてのイヴェントです」
1014日午後1時に高知県安芸市の岩崎弥太郎の生家を出発し、翌日高知市龍馬生誕の地から龍馬脱藩の道を歩き四国を23日に別れを告げ、フェリーで愛媛県の三崎港から大分県の佐賀の関に渡りました。
なぜ、佐賀の関かと言いますと龍馬(30歳)が長崎に亀山社中設立13ヶ月前に勝海舟と一緒に総勢48名で来た道を歩いています。

今日31日で、熊本港からフェリーで島原外港に着き、長崎に入りました。明日は島原城から歩きます。

来月の3日には、ゴールの長崎奉行立山役所(歴史博物館)です。
20
日間で総合計500キロ歩く予定です。

詳細はHP「NPO法人長崎の風」のトップページに「長崎の風ブログ」を開くと掲載しております。


2014年8月20日水曜日

勝海舟に同行し、福済寺(筑後町)に42日間滞在していた


元治元年(1864)、当時、幕府の軍艦奉行並だった勝海舟は、外国艦船の下関攻撃を回避するための対策を講じるため、目付・能勢金之助、坂本龍馬、近藤長次郎、千屋虎之助、望月亀弥太、安岡金馬等を伴い来崎。長崎でアメリカ・オランダ・イギリスなどの各国領事と会見し、その結果、オランダ領事から軍艦の下関派遣を猶予するとの回答を得て、解決しました。
龍馬にとっては初めての来崎で、逗留先は福済寺でした。滞在期間は223日から44日までの42日間(亀山社中設立1年3ヶ月前)。この間、大浦の外国領事館や長崎製鉄所、小島養生所などを訪れました。また、長崎で龍馬は勝と相撲をとり、大男の龍馬と小柄な海舟が組み合った様子は、「まるで鶴にタカがちょっととまったようだった」という話が残っています。
福済寺は明治に国宝に指定されましたが、原爆で焼失しましたが、現在でも当時の灯篭が残っています。NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」では、撮影が行われたそうです。




2014年8月19日火曜日

龍馬が愛用していた亀山焼の飯わんを復元。ご飯の上に鯨そぼろ、カツ、竜田揚げ。


亀山社中は、慶応元年5月(龍馬31歳)に設立しています。亀山焼が廃窯になったのが、5か月前です。この絵付けや宿泊していた建物に龍馬達はやってきます。
下関市立長府博物館に龍馬が使用した本物の亀山焼の飯わんが展示されていますが、佐世保市三川内町の「五光窯」さんが下関まで出向いて現物を見て研究し、飯わんを復元されました
写真は、長崎で4代続く「鯨専門店くらさき」さんと東彼波佐見町の窯元「和山」さんとの共同企画で、大変好評を博しています。2人とも若い社長さんで、器は相当苦労して開発されたそうです。
京王百貨店新宿店で開催された「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」で、この「ながさき鯨カツ弁当×龍馬が愛した望龍碗」の駅弁が先月販売され、すべて完売。鯨と波佐見焼を全国にPR!!
JR長崎駅のキヨスク(1日3個限定)で1個2,500円で販売中。売り切れが多いので、築町にある「鯨専門店くらさき」へ直接申し込まれた方がよいかも。度は食べる価値はあります。美味しくて、器もすごい。この値段で!?

また、波佐見と三川内の産地においては、龍馬グッズとしてマグカップなども販売されています。

2014年8月18日月曜日

麻生八咫様、昭和3年制作の阪東妻三郎主演の無声映画「坂本龍馬」を熱弁。


過日、中央会主催の連携組織交流促進セミナーの一環でLLPや企業組合の制度概要の普及の促進を図り組合設立の促進と、既存の組合相互の情報交換・交流による連携強化のために、第一部で文部大臣賞も受賞された活動弁士の麻生八咫様をお招きして、昭和3年制作の阪妻プロ作品で監督枝正義郎の無声映画「坂本龍馬」を上映し、熱弁を振るっていただきました。この作品の刀は真剣だそうです、当時の役者さんの気迫を感じますね。
風頭公園にある平成元年「龍馬の銅像建つうで会」が募金を集め建立した坂本龍馬像建立式の前夜祭に活動弁士池俊行先生の上映依頼22年ぶりに同じ作品を観る事が出来ました。不思議な事に麻生様は池俊行先生この作品を観て活動弁士になろうと決意された作品でした。すでに先生は亡くなられこの長崎で上映できた事を心から感謝されていました。
長崎の上五島に亀山社中の初の所有船ラルフウエルフ号が難破し有川町に池蔵太、黒木小太郎、水夫合わせて12名の墓がありますが、池俊行先生の御先祖様が池蔵太だったとこれまた不思議でなりません。

「昭和3年に高知の坂本龍馬像が建立されその活動をされた人が阪妻さんに直接映画作製のお願いに行かれた」と先日、高知県立龍馬記念館館長が話されていました。