2014年8月27日水曜日

龍馬~勝海舟に出会うまで~



龍馬は、生まれた日と亡くなった日が同じ1115日です。数えの33歳、今で言うと32歳の誕生日に京都の近江屋で暗殺されます。
郷士・坂本家の5人兄弟の次男の末っ子で、龍馬が生まれた時、父八平・母幸は38歳、兄権平は21歳、長姉千鶴は19歳、次姉栄は不詳、末姉乙女は4歳、豪商才谷屋で裕福な家柄でした。
龍馬12歳の時にお母様が亡くなります。龍馬の幼少時代は、成績も良くなく、泣き虫だったようです。乙女(おとめ)姉さんが母親代わりで、剣術や学問を手厳しく教えます。身長58寸(約174cm)体重が30貫(約112kg)大柄な女性です。龍馬も同じくらいの身長で、体重はわかっていません。当時男性の平均身長が150cm位ですから大男に間違いありません。
黒船の来航により土佐藩品川下屋敷へ臨時御用につきます。この時19歳、龍馬はペリーの黒船を実際に見る事になります。この頃から自分の船を所有したいと思っていたのかも知れません。これから龍馬は江戸で剣術の修業をし、高知に戻り、いろんな事を勉強していきます。
龍馬は、28歳で沢村惣之丞(長崎の本蓮寺に墓)と共に土佐を脱藩します。その年、勝海舟と面会しますが、世界的な視野の広さに、師と仰ぎ、その場で門下生になます。この時の事を乙女姉さんに手紙を書いています。
2年後の元治元年(1864)亀山社中設立13ヶ月前、幕府の軍艦奉行・勝海舟は、外国艦船の下関攻撃回避するための対策を講じるため、目付・能勢金之助、坂本龍馬、近藤長次郎等、総勢42名を伴い来崎。

勝海舟のお供として、初めて長崎にやって来ます(龍馬は脱藩罪を赦免されていました)龍馬30歳。長崎での滞在は、福済寺(JR長崎駅前にある)です。長崎には江戸時代宿屋が一軒もありませんでした。42日間も滞在しています。見るもの見るものすべてが新鮮だったと思います。 
<NPO法人長崎風 増田泰之>

2014年8月22日金曜日

龍馬が28歳の時、土佐を脱藩した道を10日間で300キロ歩きました。


龍馬が28歳の時、土佐を脱藩した道を10日間で300キロ歩きました。

「かつてのイヴェントです」
1014日午後1時に高知県安芸市の岩崎弥太郎の生家を出発し、翌日高知市龍馬生誕の地から龍馬脱藩の道を歩き四国を23日に別れを告げ、フェリーで愛媛県の三崎港から大分県の佐賀の関に渡りました。
なぜ、佐賀の関かと言いますと龍馬(30歳)が長崎に亀山社中設立13ヶ月前に勝海舟と一緒に総勢48名で来た道を歩いています。

今日31日で、熊本港からフェリーで島原外港に着き、長崎に入りました。明日は島原城から歩きます。

来月の3日には、ゴールの長崎奉行立山役所(歴史博物館)です。
20
日間で総合計500キロ歩く予定です。

詳細はHP「NPO法人長崎の風」のトップページに「長崎の風ブログ」を開くと掲載しております。


2014年8月20日水曜日

勝海舟に同行し、福済寺(筑後町)に42日間滞在していた


元治元年(1864)、当時、幕府の軍艦奉行並だった勝海舟は、外国艦船の下関攻撃を回避するための対策を講じるため、目付・能勢金之助、坂本龍馬、近藤長次郎、千屋虎之助、望月亀弥太、安岡金馬等を伴い来崎。長崎でアメリカ・オランダ・イギリスなどの各国領事と会見し、その結果、オランダ領事から軍艦の下関派遣を猶予するとの回答を得て、解決しました。
龍馬にとっては初めての来崎で、逗留先は福済寺でした。滞在期間は223日から44日までの42日間(亀山社中設立1年3ヶ月前)。この間、大浦の外国領事館や長崎製鉄所、小島養生所などを訪れました。また、長崎で龍馬は勝と相撲をとり、大男の龍馬と小柄な海舟が組み合った様子は、「まるで鶴にタカがちょっととまったようだった」という話が残っています。
福済寺は明治に国宝に指定されましたが、原爆で焼失しましたが、現在でも当時の灯篭が残っています。NHK大河ドラマ「竜馬がゆく」では、撮影が行われたそうです。




2014年8月19日火曜日

龍馬が愛用していた亀山焼の飯わんを復元。ご飯の上に鯨そぼろ、カツ、竜田揚げ。


亀山社中は、慶応元年5月(龍馬31歳)に設立しています。亀山焼が廃窯になったのが、5か月前です。この絵付けや宿泊していた建物に龍馬達はやってきます。
下関市立長府博物館に龍馬が使用した本物の亀山焼の飯わんが展示されていますが、佐世保市三川内町の「五光窯」さんが下関まで出向いて現物を見て研究し、飯わんを復元されました
写真は、長崎で4代続く「鯨専門店くらさき」さんと東彼波佐見町の窯元「和山」さんとの共同企画で、大変好評を博しています。2人とも若い社長さんで、器は相当苦労して開発されたそうです。
京王百貨店新宿店で開催された「元祖有名駅弁と全国うまいもの大会」で、この「ながさき鯨カツ弁当×龍馬が愛した望龍碗」の駅弁が先月販売され、すべて完売。鯨と波佐見焼を全国にPR!!
JR長崎駅のキヨスク(1日3個限定)で1個2,500円で販売中。売り切れが多いので、築町にある「鯨専門店くらさき」へ直接申し込まれた方がよいかも。度は食べる価値はあります。美味しくて、器もすごい。この値段で!?

また、波佐見と三川内の産地においては、龍馬グッズとしてマグカップなども販売されています。

2014年8月18日月曜日

麻生八咫様、昭和3年制作の阪東妻三郎主演の無声映画「坂本龍馬」を熱弁。


過日、中央会主催の連携組織交流促進セミナーの一環でLLPや企業組合の制度概要の普及の促進を図り組合設立の促進と、既存の組合相互の情報交換・交流による連携強化のために、第一部で文部大臣賞も受賞された活動弁士の麻生八咫様をお招きして、昭和3年制作の阪妻プロ作品で監督枝正義郎の無声映画「坂本龍馬」を上映し、熱弁を振るっていただきました。この作品の刀は真剣だそうです、当時の役者さんの気迫を感じますね。
風頭公園にある平成元年「龍馬の銅像建つうで会」が募金を集め建立した坂本龍馬像建立式の前夜祭に活動弁士池俊行先生の上映依頼22年ぶりに同じ作品を観る事が出来ました。不思議な事に麻生様は池俊行先生この作品を観て活動弁士になろうと決意された作品でした。すでに先生は亡くなられこの長崎で上映できた事を心から感謝されていました。
長崎の上五島に亀山社中の初の所有船ラルフウエルフ号が難破し有川町に池蔵太、黒木小太郎、水夫合わせて12名の墓がありますが、池俊行先生の御先祖様が池蔵太だったとこれまた不思議でなりません。

「昭和3年に高知の坂本龍馬像が建立されその活動をされた人が阪妻さんに直接映画作製のお願いに行かれた」と先日、高知県立龍馬記念館館長が話されていました。


2014年8月17日日曜日

亀山社中と亀山社中記念館。


亀山社中は、慶応元年51865)坂本龍馬(31歳)とその同志により結成され、薩摩藩から11ヶ月32分の給料をもらい、海運業、通商、商業活動の他に、薩長同盟など倒幕運動にも参画し、地元長崎からは、豪商小曽根家が支援をします。
社中のメンバーは、気が荒く、酒好きの者が多く、無類漢として見られた一面もあり、彼らを見かけた人は、「亀山の白袴が来た!」と言って道をあけたそうです。
亀山社中(111カ月の期間)を結成し、暗殺されるまで26ヶ月前の事です。


亀山焼は、当初オランダ人に売る水がめを作っていましたが、需要が途絶え1811年から天草陶石を使って磁器の生産を手掛け、長崎奉行等の援助の時期もありましが、経営不振になり、慶応元年1月に廃窯になります。その宿泊施設等の関連施設があった場所に組織されたと言われています。長崎市は、ここにあった建物を所有者の協力を得て復元整備し、「長崎市亀山社中記念館」(同市伊良林2丁目)として、オープン以来、入館者増え続けています1ヶ月平均14千人になります。柱等が当時のものだと言われ、1時間以上も待つこともあります。入館料は大人300円、高校生200円、小中学生150円。年中無休9時から17時開館です。


2014年8月16日土曜日

亀山社中時代の長崎はどんな町だったのでしょうか?


この写真は、1866(慶応2)にベアトが風頭山から撮影した写真です。亀山社中を創設した翌年の写真です。
安政の開国で長崎港以外に函館、神奈川も、オランダ・中国以外にアメリカ・イギリス・ロシア・フランスと貿易を始めた居留地時代に入ります。長崎の港にはたくさんの外国船が入るようになり、出島も役割を終えオランダ領事館になります。

当時長崎は、人口約5万人で九州一番の都市です。日本全体でも5番目の年です。
長崎は安土桃山時代からの天領(土地は幕府)でしたので幕府直轄の場所です。長崎の町は貿易に関連する商売をしていたので、非常に裕福な町でした。長崎奉行西役所と長崎奉行立山役所の役人を合計しても50人足らずです。長崎の乙名(今で言う町内会長)が名字・帯刀をゆるされ今のお金で5千万円と給料をもらい、防災や治安等の事も町内で管理していました。ですから非常に経費のかからない町であった事は確かです。個人が税金を払っていないのです。
長崎奉行が、税金を払っても、お金が余るので持家の人には箇所銀(かしょぎん)を借家人には竃銀(かまどぎん)7月と12月それぞれ現在のお金にして50万から100万円、5万から10万円を乙名から渡していたのです。
長崎港の警護は、九州の各藩がおこなっていました。多くの人を配置していました。


この町に、外国人もたくさんいる長崎に龍馬達はどんな気持ちでやって来たのでしょうか?

近藤長次郎の墓に新婚旅行中の龍馬夫妻は手を合わせた!


 長崎市寺町の皓台寺に、近藤長次郎の墓があります。日本で最初の新婚旅行と言われている京都から鹿児島に向かう途中慶応238日(長次郎死亡2ヶ月後・龍馬暗殺される18か月前)に長次郎の墓参りをします。家業が饅頭屋だった所から、饅頭屋長次郎とも呼ばれ、幼少より学問を好み世に云う秀才で、饅頭の行商を手伝いながらも、常に手には本を持ち離さなかったという長次郎は、龍馬に誘われ、勝海舟の門下生となります。
 学力の深さを知った土佐藩は、急ぎ名字帯刀を許し終身2人扶持、金10両給付の陸士格の藩士として取り立てます。その後、神戸海軍操練所設立準備のため大坂に移り、勝海舟の塾に出入りしていた大和屋の娘・お徳と結婚し、百太郎が生まれます。幕末の志士で結婚をして子供がいることは非常に珍しい事です。
 神戸海軍操練所の設立と共に神戸に移り、勝海舟の下で研鑽を積み龍馬からも直接指導を受け、一時だったが神戸で親子3人の生活を送りますが、ユニオン号引渡しで長州藩から得た謝礼金をイギリス商人トーマス・グラバーに渡した上でイギリス船に乗り込んでイギリスに留学しようとします。ところが天候悪化により出港が遅れたためにその計画が露見すし、規約違反と言う事で割腹します。


龍馬の妻であるお龍さんは、回顧録「千里駒後日譚」の中で長次郎の訃報を聞いた龍馬が「己が居たら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んだと証言しています。墓は同じ皓台寺墓地内の高島秋帆の墓の裏手(山側)に薩摩墓の一角に建てられましたが、大雨で墓が流れ本博多町の小曽根家内で亡くなった事から、昭和43年に小曽根家の墓地内に移設され海援隊士小曽根英四郎の墓の隣にあります。墓碑には、小曽根邸の離れの屋敷で割腹(享年29歳)した為、「梅花書屋氏墓」と記され、 龍馬は後に、「術数有り余って至誠足らず。上杉氏(長次郎の変名)身を亡ぼす所以なり」と「坂本龍馬手帖摘要」に記しています。<NPO法人長崎の風 増田泰之>

2014年8月15日金曜日

龍馬と岩崎弥太郎は長崎くんちを観ていた!?


  NPO法人長崎の風 増田泰之>
龍馬が暗殺される2カ月前の慶応3912(現在の108)に長崎くんちが開催され、諏訪神社のみこしが大波止のお旅所に安置している時に、江戸町で土佐人が外国人2人に切りつける事件がおこります。「江戸町おくんち事件」です。

土佐商会の二人が、大波止のお旅所に行く途中に小競り合いになり、イギリス人とアメリカ人を刀で傷つけたのです。その時に岩崎弥太郎はじめ、関係者の大方の意見が犯人を隠して長崎から逃がそうと言ったのですが、龍馬は犯人を長崎奉行につきだし、龍馬の代理人がイギリス領事とアメリカ領事に事の顛末を話し、事なきを得たという内容が、佐々木高行(海援隊を監督する役目で土佐から赴任の役人)の日記に書いてあります。 

 この時代の長崎は、安政の開国でオランダ、中国以外にアメリカ、イギリス、フランス、ロシアとも開国をし、7月にはイカルス号事件(丸山でイギリス軍艦水夫2名殺される)で海援隊に嫌疑がかかるも、無罪がやっと晴れ落ち着いた時期でもありました。この事件の第一報を聞いた龍馬は「柱に寄りかかり大きな息をして、またやったか」とつぶやいたと言う。(維新土佐勤皇史)土佐商会は岩崎弥太郎が主任・長崎留守居役の時です。


長崎くんちを観たという記録はありませんが、シャギリの音を聞いたり、笠鉾やおくんちの出し物を観たのは、間違いないと思います。是非、龍馬さんに感想を聞きたいものですね!

2014年8月14日木曜日

龍馬珈琲・日本の未来は濃いゼヨ!




いろは丸事件で龍馬は、切腹していた!?

慶応34月、海援隊が大洲藩(愛媛県大洲市)からいろは丸を借り受け、長崎から大阪に向けて航海中に紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し、広島県・鞆の浦沖で沈没します。日本初の蒸気船どうしの衝突事故で、1ヶ月後、長崎の聖福寺で日本初海難審判が行われ83千両(減額され7万両。現在の70億円)の賠償金を手に入れます。これがいろは丸事件です。

鉄砲等武器購入の目的で長崎に来ていた大洲藩の国島六左衛門が、龍馬や五代才助の周旋で、ボードウィンから購入しますが、国島はその「いろは丸」購入に藩の許可を得ていなかった為に慶応212月、その責任を負って切腹します。
長崎を出港した海援隊の初仕事で、諸藩に売り捌く武器・商品を満載したいろは丸が、瀬戸内海を長崎方面に向けて航行中の明光丸と衝突し、積載量160トンのいろは丸に887トンもの巨船が2度にわたり衝突し、いろは丸は沈没します。
当初は海援隊と紀州藩との談判に終始しますが、進展せずに土佐藩の重役・後藤象二郎が加わり、土佐藩対紀州藩(徳川御三家)の事件に発展します。当時、こうした事件の判例がなかった為、イギリス海軍の提督に外国の事例に当てはめて公平に判断して貰おうと、長崎で裁判が行われます。「船を沈めたその償いは、金を取らずに国をとる」といった歌を長崎で流行らせ、世論操作や、「万国公法」を持ち出すなど、龍馬の卓越した政治力、したたかな交渉能力、広範囲な人脈の駆使した事件だと思います。
この事件の裁判で負けていれば、龍馬はこの世にいなかったでしょう!
龍馬は、死を覚悟します。その証拠に自分が死んだら三吉慎蔵(寺田屋事件で一緒に戦った槍の名手)にお龍を実家の高知に連れて言ってくれと手紙に書いています。

西洋式蒸気船「いろは丸」を描いたとみられる絵画/江戸末期の長崎港の艦船を記録した「白帆注進外国船出入注進」(財団法人鍋島報效会所蔵) 織田毅(長崎市職員)氏発見。NPO法人長崎の風 増田泰之>

龍馬珈琲・日本の未来は濃いゼヨ!



慶応元年(1865年)坂本龍馬は長崎に「亀山社中」という
カンパニーを創りました。
亀山社中は、オランダ船に水を供給し、その代金として金平糖、
珈琲豆をもらい、それを奉行所に持っていき換金していました。
さらにグラバーとの付き合いも深く、きっと珈琲片手に商談していたのでしょう。
この商品は、その長崎でしか味わえなかった幕末頃の珈琲の味を再現したものです。豆はエチオピアからジャワ島に苗木を移植し、そこで栽培したものが日本に入ってきました。焙煎方法も当時、長崎には本格的な焙煎機が無かった為、七輪で炭をたて網で焼いてできたものです。
この龍馬が愛した珈琲は当時の味、つまり炭火焼き風味の珈琲を現在の焙煎機で再現したものです。
通常の焙煎よりも深く焼いて、こげくさくて・・を強調しました。強い苦味と香ばしさが龍馬が愛した珈琲
激動の幕末、日本に青春を賭けた男「坂本龍馬」
長崎の港を見つめながら美味しい珈琲を味わい

日本の夜明けを想い描いていたのかもしれない。

龍馬珈琲・日本の未来は濃いゼヨ!


「コーヒーは日本の大豆に似たり。是を磨きし砕き湯水に入れ
 煎じ白糖を加えて常に服す。我が国の茶を用うるが如し」
         磯野信春著「長崎土産」(元和元年1615年)

文政6年(1823年)にシーボルトが長崎に来た頃は、

             かなりの珈琲党がいたようです。