2014年8月14日木曜日

龍馬珈琲・日本の未来は濃いゼヨ!




いろは丸事件で龍馬は、切腹していた!?

慶応34月、海援隊が大洲藩(愛媛県大洲市)からいろは丸を借り受け、長崎から大阪に向けて航海中に紀州藩の軍艦「明光丸」と衝突し、広島県・鞆の浦沖で沈没します。日本初の蒸気船どうしの衝突事故で、1ヶ月後、長崎の聖福寺で日本初海難審判が行われ83千両(減額され7万両。現在の70億円)の賠償金を手に入れます。これがいろは丸事件です。

鉄砲等武器購入の目的で長崎に来ていた大洲藩の国島六左衛門が、龍馬や五代才助の周旋で、ボードウィンから購入しますが、国島はその「いろは丸」購入に藩の許可を得ていなかった為に慶応212月、その責任を負って切腹します。
長崎を出港した海援隊の初仕事で、諸藩に売り捌く武器・商品を満載したいろは丸が、瀬戸内海を長崎方面に向けて航行中の明光丸と衝突し、積載量160トンのいろは丸に887トンもの巨船が2度にわたり衝突し、いろは丸は沈没します。
当初は海援隊と紀州藩との談判に終始しますが、進展せずに土佐藩の重役・後藤象二郎が加わり、土佐藩対紀州藩(徳川御三家)の事件に発展します。当時、こうした事件の判例がなかった為、イギリス海軍の提督に外国の事例に当てはめて公平に判断して貰おうと、長崎で裁判が行われます。「船を沈めたその償いは、金を取らずに国をとる」といった歌を長崎で流行らせ、世論操作や、「万国公法」を持ち出すなど、龍馬の卓越した政治力、したたかな交渉能力、広範囲な人脈の駆使した事件だと思います。
この事件の裁判で負けていれば、龍馬はこの世にいなかったでしょう!
龍馬は、死を覚悟します。その証拠に自分が死んだら三吉慎蔵(寺田屋事件で一緒に戦った槍の名手)にお龍を実家の高知に連れて言ってくれと手紙に書いています。

西洋式蒸気船「いろは丸」を描いたとみられる絵画/江戸末期の長崎港の艦船を記録した「白帆注進外国船出入注進」(財団法人鍋島報效会所蔵) 織田毅(長崎市職員)氏発見。NPO法人長崎の風 増田泰之>

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