2014年8月16日土曜日

近藤長次郎の墓に新婚旅行中の龍馬夫妻は手を合わせた!


 長崎市寺町の皓台寺に、近藤長次郎の墓があります。日本で最初の新婚旅行と言われている京都から鹿児島に向かう途中慶応238日(長次郎死亡2ヶ月後・龍馬暗殺される18か月前)に長次郎の墓参りをします。家業が饅頭屋だった所から、饅頭屋長次郎とも呼ばれ、幼少より学問を好み世に云う秀才で、饅頭の行商を手伝いながらも、常に手には本を持ち離さなかったという長次郎は、龍馬に誘われ、勝海舟の門下生となります。
 学力の深さを知った土佐藩は、急ぎ名字帯刀を許し終身2人扶持、金10両給付の陸士格の藩士として取り立てます。その後、神戸海軍操練所設立準備のため大坂に移り、勝海舟の塾に出入りしていた大和屋の娘・お徳と結婚し、百太郎が生まれます。幕末の志士で結婚をして子供がいることは非常に珍しい事です。
 神戸海軍操練所の設立と共に神戸に移り、勝海舟の下で研鑽を積み龍馬からも直接指導を受け、一時だったが神戸で親子3人の生活を送りますが、ユニオン号引渡しで長州藩から得た謝礼金をイギリス商人トーマス・グラバーに渡した上でイギリス船に乗り込んでイギリスに留学しようとします。ところが天候悪化により出港が遅れたためにその計画が露見すし、規約違反と言う事で割腹します。


龍馬の妻であるお龍さんは、回顧録「千里駒後日譚」の中で長次郎の訃報を聞いた龍馬が「己が居たら殺しはせぬのぢゃった」とその死を悼んだと証言しています。墓は同じ皓台寺墓地内の高島秋帆の墓の裏手(山側)に薩摩墓の一角に建てられましたが、大雨で墓が流れ本博多町の小曽根家内で亡くなった事から、昭和43年に小曽根家の墓地内に移設され海援隊士小曽根英四郎の墓の隣にあります。墓碑には、小曽根邸の離れの屋敷で割腹(享年29歳)した為、「梅花書屋氏墓」と記され、 龍馬は後に、「術数有り余って至誠足らず。上杉氏(長次郎の変名)身を亡ぼす所以なり」と「坂本龍馬手帖摘要」に記しています。<NPO法人長崎の風 増田泰之>

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