2014年8月16日土曜日

亀山社中時代の長崎はどんな町だったのでしょうか?


この写真は、1866(慶応2)にベアトが風頭山から撮影した写真です。亀山社中を創設した翌年の写真です。
安政の開国で長崎港以外に函館、神奈川も、オランダ・中国以外にアメリカ・イギリス・ロシア・フランスと貿易を始めた居留地時代に入ります。長崎の港にはたくさんの外国船が入るようになり、出島も役割を終えオランダ領事館になります。

当時長崎は、人口約5万人で九州一番の都市です。日本全体でも5番目の年です。
長崎は安土桃山時代からの天領(土地は幕府)でしたので幕府直轄の場所です。長崎の町は貿易に関連する商売をしていたので、非常に裕福な町でした。長崎奉行西役所と長崎奉行立山役所の役人を合計しても50人足らずです。長崎の乙名(今で言う町内会長)が名字・帯刀をゆるされ今のお金で5千万円と給料をもらい、防災や治安等の事も町内で管理していました。ですから非常に経費のかからない町であった事は確かです。個人が税金を払っていないのです。
長崎奉行が、税金を払っても、お金が余るので持家の人には箇所銀(かしょぎん)を借家人には竃銀(かまどぎん)7月と12月それぞれ現在のお金にして50万から100万円、5万から10万円を乙名から渡していたのです。
長崎港の警護は、九州の各藩がおこなっていました。多くの人を配置していました。


この町に、外国人もたくさんいる長崎に龍馬達はどんな気持ちでやって来たのでしょうか?

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